カテゴリ:小説にみる自販機( 106 )
「文化論『日本への回歸』」の自發的動機
明治以来の日本は、殆ど超人的な努力を以て、死物狂ひに西歐文明を勉强した。だがその勉强も努力も、おそらく自發的動機から出たものではない。それはペルリの黑船に脅かされ、西洋の武器と科學によつて、危ふく白人から侵害されようとした日本人が、東洋の一孤島を守る爲に、止むなく自衞上からしたことだつた。

私が読んでいるこの文章は「文化論『日本への回歸』」(萩原朔太郎著。豪華版日本現代文學全集26 萩原朔太郎集収録。第1刷發行昭和44年1月30日 第13刷發行昭和51年7月10日)

これまで小説において自動販売機はどのような時期にどのような場面でどのような自動販売機が出現したかの確認を続けており、そのために明治期以降の小説を夏目漱石全集やら森鴎外やらはしからはしまで片っ端から読んでいるのですが、なかなか古いもので自動販売機が登場するものに巡り会うことはありません。いまのところ確認できたところでは、小説としては昭和14年上半期芥川賞を受賞した長谷健さんの「あさくさの子供」がいちばん古いのです。

現在は萩原朔太郎集を読み進めているところですが、今回目に留まったそれは「自發的動機」で、自動販売機ではありませんでした。
「自發的動機」はよくみると「自動販売機」と3文字が重なっていて、いい感じなのだな。でも、意味するところは全く異なる。

ちなみに「自發的動機」を新字体で書くと「自発的動機」。なんとなく旧字体のほうがかっこいいのだな。
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by epole | 2010-03-17 23:22 | 小説にみる自販機
「かたちだけの愛」の自動販売機
浴衣を着て、髪をさっと乾かすと、まだ止まらない汗を拭いながら廊下に出て、自動販売機に向かった。水でも飲もうかと思っていたが、ディスプレイの小脇にオロナミンCを見つけて、それも一緒に買うことにした。

私が読んでいるこの文章は「かたちだけの愛(187)」(平野啓一郎著。読売新聞連載中)

つい2週間ほど前、「自動販売機」は手っ取り早いものの例としてこの連載小説に登場したのですが、今回は実体として登場したのでありました。
以前は番台の近くに牛乳をいれたガラス保冷機なんかが置かれ、番台にお金を持っていって牛乳などを買ったものですが、いまや銭湯などには飲料の自動販売機が必須なのでしょうか。いまやどの銭湯にも店先に、脱衣場に、飲料の自動販売機が置かれています。

ところで、主人公が自動販売機で買ったのは水か、オロナミンCか、それとも両方か。水だったらペットボトル入りなのだろうなぁ。どちらを先に飲んだのだろうか。そのへんは、次の号を読めば解明されるのだろう。
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by epole | 2010-03-17 22:37 | 小説にみる自販機
「プラナリア」の自動販売機
真夏の午前十時はもう太陽がじりじり照りつけていたが、駅まで行く途中でチビケンが寄って行こうと言った公園はジャングルみたいに木々がうっそうと生い茂っていて、木陰のベンチはひんやりと心地よかった。  「新宿のあの部屋、よくないよ。」  自動販売機で買った缶のウーロン茶を飲みながらチビケンはそんなことを言いだした。
(「ネイキッド」から)

雨の国道を車はワイパーをせかせか動かしながら走っていった。いつも通りかかるパチンコ屋や自動販売機の明かりが滴に滲んで後ろに飛んでゆく。行きに必死で自転車を漕いできた道が車だとあっという間だった。車は交差点の赤信号で止まった。
(「どこかでないここ」から)


わたくしが読んでいるこの本は、
山本文緒著  『プラナリア』(第124回直木賞受賞。2000年10月30日第1刷2001年1月25日第4刷)

「ネイキッド」に登場するのは公園に置かれた飲料の自動販売機。私には、公園には飲料自動販売機が多く置かれるような印象があったのだが、小説で確認したのはここが初めて。そういう小説を読んでこなかったということだろうか。
「どこかでないここ」では、車内からみる風景の中で流れる街中の自動販売機。いつも見慣れた自動販売機のあかりが次々と後ろに流れていく。

自動販売機は出てこないけど、この短編集で私が一番好きなのは「あいあるあした」。
やはりハッピーエンドになってほしいのだ。
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by epole | 2010-03-13 09:48 | 小説にみる自販機
「コンドーム秘話」の自動販売機
この時点でぼくが想像していたコンドームというのは、ちょうど事務用の指サックのようなものであった。ああいう形くずれしないほどの厚いゴム製で、スポッと嵌めてそれ行けやれ行け、という感じで使用するに違いないと思ったのである。時々薬局の脇道などに設置してあるコンドームの自動販売機には、サンプルの箱が見えるように提示してあるが、あの箱にはきっと一個だけ、指サック形のコンドームが入っているのだろうとぼくは想像した。
「うーむ。一回百円か、高いなあ」

わたくしが読んでいるこの本は、
原田宗典著  『コンドーム秘話』(「十七歳だった!」収録。1993年6月24日第一刷発行1994年7月19日第10刷発行)

原田さんが著作「十七歳だった」で描く自動販売機の世界を辿ってまいりましたが、4回目となる今回で完結であります。
今回登場は、コンドームの自動販売機。コンドームの自動販売機は、長野県外の裏道を歩いたりすると、わりと頻繁に遭遇するのですが、長野県内ではめったに遭遇することがないものであり、たまに道端にあったりすると、思わず写真をとってしまうのでありました。
ちなみにコンドームの自動販売機の多くは全国的には引用文にもあるように薬局近くにあるようなのですが、長野県内で多くコンドームの自動販売機が置かれているのはいわゆる成人向け自動販売機の一群の中で、500円から1000円くらいの低価格帯の商品とともに売られていることが多いのであります。つまり、長野県ではコンドームは性病予防といった教育的意義よりも、大人のおもちゃやエッチDVDと同列に思われているということを物語っているような感じです。
それにしても、コンドームはコンビニや薬局やスーパーで陳列され、容易に買うことができるから、自動販売機はなくても別に困りませんが、大人のおもちゃはコンビニやスーパーや薬局や、ふつうのおもちゃやさんでさえ取り扱われていないから、こういうものこそ自動販売機で販売する意義があると思うのですが、実体はその逆なのだな。
長野県内では大人のおもちゃ販売店は長野市の「パパ」一店舗だけだと思うのだが、それが欲しいという県民は、自動販売機以外でどのように調達をしているのだろうか。
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by epole | 2010-03-03 22:19 | 小説にみる自販機
「年上の女との邂逅」の自動販売機
一日の授業を終えたぼくは悪友のH原君やS本君やM屋君と一緒に、学食脇の自動販売機でチェリオを買って、うぐうぐと飲みながらバカ話をしていた。

わたくしが読んでいるこの本は、
原田宗典著  『年上の女との邂逅』(「十七歳だった!」収録。1993年6月24日第一刷発行1994年7月19日第10刷発行)

さて、ここで問題ですが、このタイトルはなんと読むのでしょうか。私はすぐに読めず、しばらく調べました。ちなみにウィキペディアには、アイリーン・ダンとシャルル・ボワイエが主演し1939年に公開された映画「邂逅(原題:Love Affair}」が紹介されている。この訳が正確なのかどうかはわからないが、どんなに良い映画であろうと現代であれば、日本国内での興行は間違いなく不入りであろう。

今回登場する自動販売機は、本当にさりげない、なんということもない飲料自動販売機なのだが、学生生活において、なくてはならない名脇役であったことが想像出来るのである。
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by epole | 2010-03-02 21:36 | 小説にみる自販機
「夜を走るエッチ約一名」の自動販売機
さて深夜におけるエッチな本の仕入れ先と言えば、これはもう御存知自動販売機。本屋は閉まっているし、今のようにコンビニエンスストアもない時代であったから、必然的に本の自動販売に落ち着くわけである。確かに自動販売機におけるエッチ本購入には、いくつかの利点がある。まず第一に機械を相手に購入するわけだから、「うッ、ここの本屋は店員がおねえさんだ。エッチな本は買えない!」などと悩む必要はない。ようするに気兼ねがいらないのである。第二に、本屋に比べるとスピーディに購入できる。これもありがたい利点である。しかし逆に自動販売機には、大きな欠点もいくつかあった。最大の欠点は、あまりにも目的がはっきりしてしまう点である。自動販売機で本を買うからには、「百%エッチです」と顔に書いてあるも同然。万が一、購入しているところをだれかに垣間見られたら、言い訳のしようがない。(中略)第二に、自動販売機で売っている本は中身が確かめられない、という欠点もあった。ガラス越しに表紙と題名だけを見て、どれが一番暴れん坊将軍の趣味に合う内容なのか、想像力を全開にして推理しなければならない。しかも前述の通り、自動販売機=純度百%エッチという図式が成立しているわけだから、その前に立ち止まってじっくりと吟味するような行為は慎まなければならない。
(中略)
「うーむ、買いに行くか。しかし面倒臭くもある」ぼくは腕組みをして考え込んだ。もし買いに行くなら、結構大量の小銭が必要である。なにしろ当時の自動販売機は旧式だったので、お札が使用できない。にもかかわらずエッチな本はかなり高価だったのである。(中略)当時、自動販売機で売っているエッチな本は、最低でも三百円はした。高いものになると、九百円という超豪華エッチ本も存在したのである。にもかかわらず、自動販売機自体は作りが古く、千円札が入るようになっていない。(中略)しかも当時は、現在のようにコンビニエンスストアなんて便利なものは無かったから、真夜中に唐突に百円玉の必要が生じても、お札を崩してくれるような場所がなかった。煙草の自動販売機だって、硬貨しか入らなかったのである。(中略)自動販売機に向かって走っている自分の姿が髣髴とする。
(中略)
ぼくは自転車にヒラリと跨がり、夜道を炎のごとく疾走し始めた。目指すは麗しの魅惑のむふむふの自動販売機である。当時、ぼくが住んでいた岡山市下井福という場所から、最も至近距離に設置されたエッチな本の自動販売機までは自転車で約三分。奉還町という商店街からちょっと逸れた、二車線の通りに面した場所である。ここは車の往来は結構激しいが、深夜ともなると通行人の姿は皆無に等しく、エッチな本を購入するにはまさに、「ナーイス」な環境であった。したがって当時、ぼくが所有していたそのテの本の大半は、この自動販売機君の協力を得て、手に入れたものであった。ぼくはほとんど息継ぎもせずにこの場所まで自転車を飛ばし、薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっている自動販売機を目にするのと同時に、ファイヤーなペダルの動きをゆるめた。(中略)自動販売機に近づいたところをうっかり誰かに見られようものなら、えらいことになる。何しろぼくの自転車には『操山高校352』なんていう学校指定のナンバーがしっかり付けてある。これを口さがない近所のオバサンなんかに見つかってしまったら、ただではすまない。「操山高校の352って誰だったのかしら。いやだわいやだわフケツだわ。調べてみちゃおうかしらあたし」てなことになり、高校へ電話が入り、その結果としてぼくの存在が明らかにされて「その生徒ったら真夜中に自動販売機で『ぷりぷり乙女のムチムチ日記』っていう汚らわしい本を買ってたのよ。あたし見たんだから。見たんだから見たんだからあ!」などと糾弾され、停学をくらうことになるかもしれないではないか。(中略)いやだわいやだわそんあのいやだわ、でも買うのは止めないわ、気をつけて買うわ、というような内的葛藤の後に、ぼくは前後左右を確かめつつ、自動販売機に近づいていった。幸い、人影はないようである。それを確かめると、ぼくは再び「ファイヤー!」とペダルを漕いでダッシュし、自動販売機の正面に立った。エッチな本は五冊づつ二列に、上から下へと並んでいる。表紙はいずれもエッチエッチエッチ、エッチの坩堝である。九百円の超豪華エッチ本が三冊、六百円のやや豪華エッチ本が三冊、四百円のあたりさわりのないエッチ本が二冊、三百円の格安エッチ本が二冊といった品揃えである。
(中略)
「うわあー、どうするどうする!」耳から煙が出そうになったその時、こちらへ近づいてくる人影が視界の隅をよぎった。ぼくは真っ青になって「いかあーん!と、エッチ本の自動販売機の前から移動した。そこには缶ジュースの自動販売機が置いてある。(中略)自動販売機の中でウィーンと音がして、少し間を置いてから、下の取り出し口に本が落ちてくる。


わたくしが読んでいるこの本は、
原田宗典著  『夜を走るエッチ約一名』(「十七歳だった!」収録。1993年6月24日第一刷発行1994年7月19日第10刷発行)

これはまぁ、壮絶なエッチ本の自動販売機を利用しようとする若者の記録である。いまでこそ、ちょちょいと検索さえすれば、それはもうものすごい、エッチを超越した画像やら動画やらがえっさほっさと見放題な世の中でありますが、当時はエッチな本といえば、自動販売機で調達するのがもっとも普通なやり方だったのだ。

筆者によると、自動販売機でエッチな本を調達することのいくつかの利点から、次の二つを挙げている。
 1 気兼ねがいらない。
 2 本屋に比べ、スピーディに購入できる。
これは若者にとっての最も重要な利点なのだろうが、私みたいな大人が冷静に考えると、実はエッチな自動販売機の利点は次の2点となる。
 1 24時間(夜間でも)販売していることから、必要なときに購入することができる。(日中は販売していないこともあるが。。。)
 2 近所に求める商品を販売していない場合、購入の機会が提供される。
自動販売機で商品を販売する場合、販売者にとってのメリットは「無人で24時間いつでも販売が可能」という点で、その無人ということが、購入者にとって「気兼ねがいらない」というメリットになる。また、筆者も述べているとおり、エッチな商品の購買意欲が高まるのは、一般的に通常の本屋が営業をしていない夜間であり、この時間帯に営業している自動販売機というのは、実にありがたい存在でありました。

また、近所に求める商品が販売されていない場合、自動販売機は、その購入を保証する存在であります。例えば、近年は農村部の本屋の多くは撤退し、本はもはや都市部の本屋に出かけていくか、又はネット通販で購入する時代となりつつあります。あの年間100万人以上が訪れる小布施町にも、本屋は存在していないのであります。
商品を求める機会がない場合、その商品を供給しようと自動販売機が設置された場合、それを規制することは、商品販売の自由、購入機会を奪うこととなります。これはどう考えても憲法に保障された「知る権利の侵害」であることは異論がないのではなかろうかと思うのであります。
その点、一部の人々の、すこぶる真っ当そうな意見を受けて、ほとんど「知る権利」について議論もなく、エッチな自動販売機が一方的に悪者にされて、条例等により強制撤去されていくことに、私は疑問を持たざるをえないのであります。

さて、本書はエッチ本を自動販売機で買おうとする姿を描いたものなので、全編にわたって自動販売機が出現し、文脈をとりながら自動販売機の出てくる文章をすべて引用しようとすると、ほとんど全文を引用しかねないという状況でした。
しかしながら、それでは多分に問題がありますので、本当に、どうにか前後の意味がわかる範囲での最小限の引用にとどめました。
今回引用部だけでも相当興味深い文章となりましたが、中略のない文章は誠に深いものですので、このブログを読んだみなさんは、ぜひ本屋でお求めになりますようお薦めいたします。
近くに本屋がない場合は、自動販売機又はネット販売でどうぞ。
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by epole | 2010-03-01 23:27 | 小説にみる自販機
「煙との遭遇」の自動販売機
S本君はやけに落ち着きはらった態度で教室を後にし、食堂脇の藤棚の辺りへと足を運んだ。「おいおい、まさか食堂で吸うんじゃないよなあ。な、な」ぼくは不安を覚えてS本くんに尋ねた。そんなことをしたら一網打尽というか一巻の終わりというか李下に冠を正すというかバラサバラサというか、ともかくもう先生にバレて捕まってしまう。
「あほ、違うがな。食堂の自動販売機でチェリオ買うんじゃが」「あ、なんだチェリオか」「飲みながら吸う。これが通じゃがな。しかも飲み終えた後の空壜は灰皿代わりにもなるという寸法じゃい!」「なるほどおー」
さすが医学部志望だけのことはあって、S本君の作戦は理にかなっている上、奥が深い。ぼくはすっかり感心して、自分もチェリオを一壜買おうと思った。ちなみにチェリオというのはいわゆる清涼飲料水のブランド名で、当時の岡山の高校の食堂には必ずこの自動販売機が置いてあった。味はファンタに似ていたが、量が多い上に値段も安かったので、大変ありがたかった記憶がある。

わたくしが読んでいるこの本は、
原田宗典著  『煙との遭遇』(「十七歳だった!」収録。1993年6月24日第一刷発行1994年7月19日第10刷発行)

十七歳で、煙との遭遇とあれば、それはどうしてもたばこへと発想がつながるわけで、そこで自動販売機とくれば当然「たばこの自動販売機」の出現を予想するわけですが、原田さんのこの段では「たばこの自動販売機」は出現しない。この文章の前段で、彼が高校生にして初めて(教育上よろしからぬことであるが)吸うたばこは、彼の家の奥の六畳の片隅に、彼の父親が灰皿とともに置いたたばこ(銘柄はチェリー)だったのだ。(この際責められるべきは彼の父親であり、彼ではない。ところであえて批判を覚悟しながら言わせてもらうと、このくらいのスキは残さないと、子供のはけ口が奪われ、悪い方向に進むような気がしている。程度問題だが。)
彼が十七歳だったのは1970年代。そのころはまだ、今ほどばかみたいにタバコの自動販売機は巷に溢れていなかったのかもしれない。

高校の食堂には壜のチェリオの自動販売機が置かれていたのだな。いま、チェリオは各地で安めの価格設定をした自動販売機の主力商品として復活しつつあります。それらはペットボトルや缶入りなのですが、壜のチェリオについては、高校サッカー部員や自衛隊で根強い人気だったという泉麻人さんの著作を以前紹介したところです。でも、瓶の口は王冠規格でファンタやコーラの口と同じだから、灰皿にするにはちと小さすぎる。
そういえば私が文京区に住んでいた頃、文京区図書館の脇に、チェリオの壜の自動販売機が置かれていて感動したのを、チェリオを見るたび、つい先ほどのことのように思い出すのであります。
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by epole | 2010-02-28 22:04 | 小説にみる自販機
「恐怖!!ばちあたり自販機」の心霊写真自動販売機
最近、バカバカしくも不気味な噂を聞いた。なんと、“心霊写真の自動販売機”があるというのだ。この世にこれ以上無意味な自販機があろうか。また、それが本当に事実かどうかさえ定かではない。噂の糸をたぐりにたどってみると、この自販機を見たと言い張る人物が漫画家の「さくらももこ」であることが分かった。(中略)それでも、我々は「さくらももこ」に聞くことにした。それ以外に自販機のありかを知る者が無いのだからやむをえない。
(中略)
それにしてもいったいどういう意図でこの自販機を造ったのか。(中略)ナゾがナゾを呼ぶ中、蓬莱が自販機に100円玉を入れてみた。100円玉はとりあえず投入口の溝にハマったが、下へ落ちてゆかない。「あれ?落ちないぞ、おかしいな」と、あわてる蓬莱。100円玉は見えている。が、取り出す事もできない。空しい風が吹く。蓬莱の100円玉は、まんまと自販機に奪われてしまった。つまり、この自販機は故障中だったのである。我々は、この自販機の販売元である㈱コスモス社を真剣に調査しようと心に決めた。
(中略)
そもそも、どういう考えで、心霊写真を自販機で売ろうと思ったのか、という質問に対して「今、心霊写真がブームなのでけっこう売れると思ってやってみたんですが……」と、ビートたけし(似)は言った。「この自販機は、まだ試しの段階だったんですよ。このテストで良い結果が出れば全国的に大量に売り出せたのですが、どうもコレは成績が悪かったので2週間ほどで見切りをつけました」と寂しそうに語るのは、そのまんま東(似)。
(中略)
こんな㈱コスモスにも、悩みは尽きない。本来、ここの会社は子供のオモチャのカプセルを造っており、それは道端に置いてある、ガチャガチャッとまわすとポンと出てくるアレである。(中略)また、盗難にも頭を痛めている。「ガチャガチャ」の機械なら、丸ごと盗んでしまえるので店先から「ガチャガチャ」が消えることがしょちゅうあり、月500件くらいの被害が出ているとか。今までで最もすごかった事件は親子3人で「ガチャガチャ」を盗みまくり、盗みながらも旅から旅へ渡り歩き、3か月間で150万円も稼いだというから大したもんである。念のために言っておくが、「ガチャガチャ」を盗む者たちは、機械の中のお金が目当てなのであり、何もオモチャが欲しくて危ない橋を渡っているわけではないぞ。それにしても、高円寺の心霊写真販売機現場には、「ガチャガチャ」と共にコンドームの自販機が置いてある。まさか、それも㈱コスモスの仕業としたら、もはや㈱コスモスは子供のオモチャではなく、大人のオモチャの販売にも手を伸ばし始めた証なのだが、当然コンドームはゴムの会社の仕業だった。


わたくしが読んでいるこの本は、
うみのさかな&宝船蓬莱著  『恐怖!!ばちあたり自販機』(「うみのさかな&宝船蓬莱の幕の内弁当」収録。1992年3月30日初版発行1992年6月15日4版発行)

表題のとおり、全体が基本的に自販機に関して述べられているので、引用が長くなってしまいました。このあと著者の興味は販売品目である心霊写真の真偽へ移っていくのだが、わたしはそれ自体にはあまり興味がない。
ともかくも当時、高円寺には、心霊写真の自動販売機が試験的に稼働していたようである。

フリー百科事典ウィキペディアには、㈱コスモスは1988年に倒産したこと、同社の販売子会社だった「ヤマトコスモス」が現在も栃木県宇都宮市で営業を続けており、栃木県には購入可能な自動販売機がいくつか残っている旨が記載されている(平成22年2月27日午前10時30分現在の記述)。

「うみのさかな&宝船蓬莱の幕の内弁当」は、『月刊カドカワ』の’88年8月号から’89年10月号までに連載された「さかな・蓬莱の幕の内弁当」をまとめたもので、㈱コスモスへの取材は、まさに倒産寸前の取材であったようだ。
なお、倒産の原因が、心霊写真にあったのかどうかは定かではない。

PS.日刊サイゾーには、ヤマトコスモス会長へのインタビューが掲載されています。コスモスの自動販売機の写真も数枚ありますが、残念ながら心霊写真はありません。
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by epole | 2010-02-27 10:31 | 小説にみる自販機
「遅すぎたプロポーズ」の自動販売機
ぼくが何気なくジュースを買ってきてって言ったのさ。そしたら、「お金がないの?」って訊くんだよ。「あるよ、ほら」ってぼくが手に握った百円玉を渡そうとすると、新庄さんは、「あそこに自動販売機があるわ、見えない?」ってまた訊くの。「見えるよ」ってぼくが答えると、「じゃあ、さっさとワッパまわして行ってくればいいわ」と言うんだよ。

わたくしが読んでいるこの本は、
落合恵子著  『遅すぎたプロポーズ』(「男と女」収録。1990年10月20日印刷1990年11月5日発行)

落合恵子さんの書く文章は、なんというか、とっても女性的で、とても私の理解を飛び越えた表現や脈略が続いてひとつの文章を構成している。わたくし、女性作家の文章は嫌いではなく、明治期以降から現代までの女性作家の文章を好んで探して読んだものだが、落合恵子さんのような文章は他にはない。

明後日(平成22年2月28日)、小布施町図書館「まちとしょテラソ」に落合恵子さんがやってくるということで、長野駅前のブックオフに行って、105円のコーナーで見つけたのがこの、落合恵子さんの本「男と女」。
栞紐のあるところを開くと、ちょうどそこにその文章はありました。

なお、引用原文では、「ワッパ」に傍点が打たれていました。「ワッパ」とは文脈上、小判状の木曽漆器ではなくて、”ぼく”が乗っている車椅子を指すようです。
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by epole | 2010-02-26 23:38 | 小説にみる自販機
「かたちだけの愛」の自動販売機
彼女はそうして、他の女が、大いに人間的な魅力を発揮し、信頼を得る努力をして、ようやく人からもたらされる「やさしさ」を、自動販売機のボタンでも押すように、まったく手っ取り早く調達することができるのだろう。

私が読んでいるこの文章は「かたちだけの愛(174)」(平野啓一郎著。読売新聞連載中)

朝早く出勤すると、アジ化ナトリウムによる犯罪のことを思い出しながら職場の2本のポットのお湯を入れ替え、あとは朝刊を読み比べているのであります。
数紙の新聞の記事のうちで、唯一たまに読む連載小説がこの平野さんによる「かたちだけの愛」で、本日(平成22年2月26日朝刊)に掲載された一節に自動販売機が登場しました。
とはいっても、それは実体としてではなく、「自動販売機を押す」という行為が、「手っ取り早く調達することができる」比喩として採用されているのであります。

「自動販売機を押す」という行為は確かに「手っ取り早い」のだが、この文章の文字間に表されるとおり、そこからもたらされるものは、ありがたみが少なく、尊くないのだなぁ。
それは自動販売機の宿命なのか。そうではない自動販売機はないのだろうか。

いま考えつく限りでは、若かったころ、人の目をぬすみこっそり利用した雑誌自動販売機は手っ取り早くなかった。でも、でてきた商品には、表紙の割に中身に大したモノが無くて、いつも失望させられたものだなぁ。。。
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by epole | 2010-02-26 19:54 | 小説にみる自販機