カテゴリ:小説にみる自販機( 106 )
居酒屋兆治の自動販売機
a0003909_6303820.jpg風が吹くと寒い。しかし、兆治は頸筋に汗をかいていた。それは、駅前の自動販売機まで煙草を十箇仕入れに行ってきたからだった。

わたくしの読んでいるこの本は、
山口瞳 著 『居酒屋兆治』 第一話 霧しぐれ

山口瞳さんといえば、丸顔で、めがねをかけて、サントリーウイスキーを飲んでいるというイメージがわたくしにはあって、それはどうもテレビコマーシャルの影響であったようなのであります。
自動販売機が急速に普及した時期は、テレビが急速に普及した時期と重なります。

居酒屋兆治は昭和54年(1979年)10月から「波」に連載。冒頭の一節は、まさしくこの小説の冒頭の一節なのであります。

日本でたばこの自動販売機が最初に置かれたのは昭和33年(1958年)で、昭和34年(1959年)には184台、昭和40年(1965年)には3606台だったのが、昭和45年(1970年)には39867台、昭和50年(1975年)には177132台と急増し、この小説が連載された昭和55年(1980年)には32万台を超えています。(平成18年(2006年)現在の設置数は565200台)

しばらくまえの小説を読むと、人々はたばこ屋を求めてながい道のりを歩くのだけれど、この小説に至って、ひとびとは自動販売機に向かって歩くようになったことが確認できました。
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by epole | 2007-03-28 06:42 | 小説にみる自販機
しょっぱいドライブの自動販売機
a0003909_8423526.jpg「ぼくなにもしてないよ」
と言いつつ、九十九さんはハンドルを持たない手で鈴のぶらさがった小銭入れを出し、いくらあるか勘定している。ひいふうみい、と計算し、ジュースの自動販売機の前で、いる?と言うしぐさをした。
「いえいえもう、父から兄からわたしからお世話になりっぱなしで」
と言いつつ、わたしは、わたしを産んですぐ死んだという母親は、九十九さんみたいだったろうか、と思う。九十九さんはあけた窓から伸びをし、上半身だけ出してあつあつの缶入りのお茶を買う。

わたくしの読んでいるこの本は、

大道珠貴 著 『しょっぱいドライブ』 (第128回芥川賞受賞)
発行所:文芸春秋、2003年3月1日第1刷発行

運転席にいる九十九さんは、年齢は60すぎくらいの男性。小説ののっけから『とにかくとしよりの運転だから』などと「わたし」に評されています。

自動車で飲料自動販売機を利用するというのは思いのほか困難を伴う作業で、それも運転席にいるまま利用しようとすると、国産車の場合だと右側の自動販売機に沿って停めなければならないわけで、これは公道でやるとヤンキーのおにいちゃんみたいなので、駐車場や空き地に限ってできるようなかんじです。
さらに、お金を入れて商品ボタンを押すまではなんとか誰でもできるのですが、商品口におちた飲料を、商品口の透きとおったふたをこちら側にもちあげ、なかの商品をとり上げるのは、よほど二の腕が長くて体の柔らかい人物でなければ成し難い芸当であります。特に車が近すぎたりするとふた自体があかないので、一旦車を移動させるはめになります。
そのようなわけで、たいがいは商品を取り出す作業が思うに任せず、「アヽ、コノヤフナコトデアレバ、当初ヨリ車ヲ降リテ購入作業ヲスヘキデアツタワイ」と後悔するのです。

ジュースの自動販売機であつあつの缶入りのお茶を買うというのは日本特有のもので、世界的にはジュースとあつあつのお茶をひとつの自動販売機で販売することは考えにくいのではないかと思われます。外国語訳をだすとき翻訳注意なのであります。

それにしても、今の常識では「これは困難」とか「当たり前」とすることが、次の時代には理解できないことになっているかもしれない。
小銭入れや硬貨は残るだろうが、商品受け取り口が中央にあって商品がウィーンとうなりをあげてそこにあがって来る自動販売機も実用化されている。(私は電気代がもったいないと思うが、車椅子の方や自動車の運転席にいながら購入するには便利)
このようななにげない所作を将来に保存することも重要と思っているのであります。

さて、今回の小説はいままでになく最近出版のものなので、本文を勝手に引用するのはまずいような気がしています。どうにかして(事後)承諾を得たいと強く考えているところであります。とりあえずは誕生日に免じてお許しください。
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by epole | 2007-03-21 08:43 | 小説にみる自販機
「白く塗りたる墓」の自動販売機
a0003909_2285869.jpg「真澄、病院の受付けのところに、ジュースの自動販売機があったろ。ちょっとジュースを買ってきておくれ。」と三崎は言った。

私の読んでいるこの本は、

高橋和己 著 『白く塗りたる墓』 第一部第10章
発行所:筑摩書房、昭和46年5月25日初版第1刷発行、昭和46年6月15日初版第2刷発行のもの。

小説の時代は大学紛争のただなかではあるが、主人公が身を置くジャーナリズムの世界は(業界外のわたくしには)現在とそれほど変わらないように感じられる。

病院に入院した主人公は、母にしばらく席をはずしてもらうため、母と一緒に見舞いに来た娘に自動販売機でジュースを買ってくるようにいうのである。
売店ではなくて、自動販売機。屋内自動販売機。
それは登場人物の全てに違和感なく自然なものの言い回しであったようだ。

ただし、いまなら「何にするの?」と尋ねるだろう。昔はジュース!も選択肢が少なかった。
この自動販売機は缶だったのかカップだったのか。それともビン?

「どうしたんえ?」戸口のところに母が立っていた。足音はしなかったから、大分前から彼の様子を見ていたのかもしれなかった。真澄がジュースの瓶をかかえて母の裾に身をかくすように立っている。おどおどと、彼に優しい声をかけてもらうのを必死に待つように。

受付けの前にあったのは、ビンのジュースの自動販売機でありました。
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by epole | 2007-03-14 06:18 | 小説にみる自販機
第135回芥川龍之介賞と自動販売機
第135回芥川龍之介賞は伊藤たかみさんの「八月の路上に捨てる」に決まったとのことです。

作品は、自動販売機の清涼飲料水配送のアルバイトをしている29歳の男が主人公で、「夏の一日、年上の女性運転手と仕事をしながら交わす会話に重ねて、彼の結婚生活の破たんがつづられる。青春の終わりが繊細な文章で描かれている。」とのことです。

都市部では6月1日からの改正道交法による違法駐車取締りにより、民間の駐車監視員と警察官が、車の駐車違反を確認した段階で違反シール(標章)を張るといった形での違法駐車取締りが開始しており、必要なサービスを提供しようとする郵便局以外の業者が影響を受けています。
自動販売機の管理業者も同様の影響を被っており、長野、松本の取り締まり区域内では、自動販売機への商品補充等が、複数名により実施されているのを目撃します。
この場合、運転者は正規職員であり、主体的に業務を行うのでしょうが、同乗者は補助的役割と駐車禁止逃れが主目的であり、アルバイトさんにお願いすることが多くなりそうです。

そのへん、実にタイムリーな作品なのであります。
でも、実際はまだ読んでいないから、文芸春秋がでたら、早速買って読んでみましょう。
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by epole | 2006-07-14 20:49 | 小説にみる自販機
三島由紀夫氏と自動販売機
『金閣寺』『潮騒』などの著作で有名な三島由紀夫氏は1925年生まれ。『金閣寺』で読売文学賞小説章を受賞したのが1956年。その後、十数年の著作活動、芸能活動などの後、1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決をしているのであります。
人々に三島由紀夫氏のイメージを問うてみますと、やはり中学校の修学旅行の折に学習をしたためか、まず『金閣寺』の作者であること。その次に、市ヶ谷での自決なのであります。
私は、大学生であったときは、ほとんど講義に出席をせず、朝から夜まで図書館にこもるという生活を2年ほど続けている時期がありました。しかしながら、三島文学についてはその時期ほとんど接することがなかったのではありますが、ただ、『音楽』という作品だけが、その甘美な最終章、『音楽とまることなし』の響きが心の中を駆け巡っていたのであります。
さて、その三島氏が著作活動を活発に行った1960年代は、以前述べたように、自動販売機の大普及期でありました。氏の著作の中に自動販売機の文言がないか、読み直してみました。
『不道徳教育講座』というエッセイ集が角川文庫から出版されています。これは、1958年に「週間明星」で連載されたものですが、このエッセイ集の「人の失敗を笑うべし」のなかに自動販売機が登場しています。
「自動販売機にチャンと故障と書いてあるのに気づかず、いくつも十円玉をギセイにして、顔から湯気を立てているおじさんを見ることは、何て嬉しいんでしょう。」
三島氏の小説には登場することのない自動販売機が、このあまり秀作ともいえないエッセイ集の中で一回だけ使われています。
三島文学の中で、自販機はけっして『音楽』を奏でる存在ではなかったのであります。
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by epole | 2005-06-12 23:45 | 小説にみる自販機
ほら男爵と自動販売機
ミュンヒハウゼン男爵の活躍を描いた「ほら男爵の冒険」は、1785年に英国で出版され、その184年後の1969年、星新一氏が「ほら男爵現代の冒険」を発表しています。

「ほら男爵現代の冒険」は「サハリの旅」「海へ!」「地下旅行」「砂漠の放浪」の4編で構成されていますが、そのうちの2編「海へ!」と「砂漠の放浪」において、自動販売機についての記述が見つかるのであります。
「海へ!」では、流れ着いた孤島で魔人にお弁当の自動販売機を出してもらうがその時点ではお金がなく、お金を出してもらうが紙幣で、再度貨幣を出しなおしてもらうが販売機の穴に合わず、結局力持ちの大男にハンマーで自販機を壊してもらい、中のお弁当を取り出すというものであります。
「砂漠の放浪」では、砂漠の真ん中に自動販売機があり、その販売機はコーラのでも切手のでもなく、〈もはや力がつきて歩けなくなった時に、さらに前進への力をかきたてるためのセット〉を売るものでありました。(それが何かは本で読んでね。)

この時代、星新一氏が、『現代』を表現するものとして自動販売機を2箇所にわたって扱っていることは、特筆すべきことであります。
日本自動販売機工業会のデータによりますと、1960年代に入り自動販売機は日本で急速に普及し、1964年に24万台弱であった自動販売機の普及台数が、1970年には100万台を突破、1973年には200万台を突破しているのであります。

「ほら男爵現代の冒険」は新潮文庫から発行されています。ちなみに私が持っているのは昭和50年6月30日八刷。定価は200円です。


PS.今日再び「ほら男爵現代の冒険」を読み返すと、次の次の2箇所でも自販機の記述がありました。
「サハリの旅」で、幅30mほどの川を渡るのに、ワニに追わせて川を渡るため、「両側にスクリューのついたアヒルのオモチャの自動販売機を置いたらどうだろう。有料橋のかわりになる。」という男爵のアイデア
「地下旅行」で、国連を小型原爆で爆破しようとした地下組織の描写。「室のすみにはジューク・ボックスとかコカコーラの自動販売機といったまともなものもある。」

4編のすべてに自動販売機は登場していたのだな。(2005.11.13)
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by epole | 2005-05-29 12:03 | 小説にみる自販機