カテゴリ:小説にみる自販機( 106 )
ペナントの自動販売機
ならば街道まで抜けてしまおう、きっと別の店も見つかるに違いない。ところが街道に点っている灯りは清涼飲料の自動販売機と車のヘッドライトだけだった。道路の両側は生気の感じられない工場か倉庫、そうでなければ昔のままの農地だった。

私が読んでいるこの本は、礒埼憲一郎著「ペナント」株式会社新潮社発行 「終の住処」収録 2009年7月25日発行 2009年8月9日3刷

この小説の題である「ペナント」は、昔旅先の観光地で売っていた長三角形の布地の、壁に貼るやつですが、ペナントの自動販売機という訳ではありません。
主人公が飲食店を探して街をさまよう数ページの中にこの場面が登場するのですが、なんということはない、田舎の普通の光景を言い表しているようです。ただ、私にとっては、シャッターを閉じた商店が登場しないのが面白い。私の中にはシャッターを閉じた商店と、煌煌とあかるい自動販売機がいつも対となっているからなのであります。
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by epole | 2013-08-18 22:24 | 小説にみる自販機
夢のあとの自動販売機
そば屋から出て、長谷観音までの人がやたらにいっぱいいる短い道の半分ほど行ってみてもビールの自動販売機がなかったから、江ノ電の長谷駅の少し先の酒屋まで二、三百メートル逆戻りすることにして、れい子が「バカみたい」と言ってくるのに、「それだけ外が気持ちがいいってことなんだよ」なんて言い返して、それでまたれい子から、「言い訳なんかしなくていいのに」と笑われながら、あらためて長谷観音の門の前に着いた。

私が読んでいるこの本は、保坂和志著「夢のあと」株式会社新潮社発行 「この人の閾」収録a0003909_1662298.jpg 1995年8月10日発行1995年9月5日2刷

私の頭の中ではビールといえば瓶のキリンビールで、近年アサヒビールがスーパードライの大ヒットををとばし、その「ドライ」に各社が追随した結果本家ドライの「スーパードライ」の評判を上げることとなり、いまやスーパードライのシェアが最大となっているというカンジなのですが、いまこの文章を読んでから年表を見てみるとスーパードライの大ヒットは1987年と、もう20数年も前のことなのですね。
さて、主人公はほんの200mほど歩けばビールの自動販売機があるであろうと考えていたようですが、実際はそれはなく、引き返して酒屋でビールを買うこととしました。そう、いまでこそ酒類の自動販売機はほとんどなく、あっても酒屋の軒先で年齢認証装置のついたものがある程度ですが、1995年当時は辻辻に置かれ、とても便利であったことを私は覚えているのであります。

(写真は安芸の宮島にあったビール自動販売機。年齢認証装置が。。。)
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by epole | 2013-08-17 16:08 | 小説にみる自販機
キュアの自動販売機
咽が渇いてとても甘いものが欲しかった。埠頭の自動販売機の前に立ってポケットの小銭をまさぐると、いっしょに紙切れが出てきた。

わたくしが読んでいるこの本は、田口ランディ著「キュア」(朝日新聞社  2008年1月30日 第一刷発行)

あまりの連日の猛暑に頭が働かず、テレビを見てもただ時間だけが経っていくのでした。椅子から手をぶらりと下げたその先に触れたのが、田口ランディさんの「キュア」でした。
田口ランディさんは毎年木崎湖畔で開催される「原始感覚美術祭」にこられています。そういえば今年も先週から始まったなぁと思い出し、読み直しをした中で出てきた自動販売機でした。

私と自動販売機との関係は微妙ですが、今年も縄文とランディさんの感覚世界に会いにいくこととしよう。
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by epole | 2013-08-11 15:46 | 小説にみる自販機
リッツ・カールトンと日本人の流儀の自動販売機
a0003909_16235153.jpgザ・リッツ.カールトン大阪の開業後、普段から自分の立ち居ふるまいを常に意識する習慣を徹底しました。ホテルにはスタッフが休憩や食事をとる社員食堂があります。スタッフは、そこに設置されている自動販売機からペットボトルに入った飲料を購入します。いま、私たちは普段の生活のなかで、ペットボトルの容器に直接口をつけて飲むことが多くなりましたが、リッツ・カールトンでは、それをしないようにしました。必ず、グラスに注いで飲むように習慣づけたのです。
理由はとても簡単です。もともと日本の文化には、こうした飲み物を入れた容器に直接口をつけて飲むという習慣はありませんでした。お茶は急須から湯飲茶碗に、お酒は徳利からお猪口に注いでいただくのが古くからの日本の美しき文化であり、ふるまいなのです。

わたくしが読んでいるこの本は、高野登著「リッツ・カールトンと日本人の流儀 人を動かす『洋の言葉』と『和の心』」(株式会社ポプラ社  2012年8月20日第一刷発行)

9月6日に平安堂長野店で、高野登さんの本書出版記念トークショーとサイン会がありました。先着50名との案内がありましたので、会社を少し休んで3時間前に駆けつけたのですが、たくさんの問い合わせがあったようで、場所を大きな会場に代えての開催となり、一旦店を出て、開演30分前に当書を購入の後会場に到着したわたくしも、一番前の席でお話をお聞きすることができました。

高野登さんは長野県の信越放送の朝の番組「高野登のホスピタリティって何だろう」に週一回出演されており、引用の話もその番組中でお伺いした内容です。日頃のなにげない立ち居ふるまいが、その後に自然とその人の行動に現れる具体的な例ですが、このような文字になり、また、ご本人からお話をいただくと、「日本人の流儀」といったものがいかに日本人を自立させ、それを守ることが単に日本人間の問題でなく、尊敬され自立する日本人を支えるものであるということまで強く自覚をしたところでした。
私が小学生の頃は板の間の食卓に正座をさせられて食事をとっていたところですが、それも伝えられた流儀だったのかもしれません。(単に貧しかったせいだとも思いますが。)

伊那食品工業の塚越会長のお話も本書の大きな部分を占めています。わたくしも本社にお伺いし、会長のお話を伺ったことがあるのですが、高野さんはまったく比べ物にならない、深い意味を読み取っていらっしゃいます。それは、物事をひろく受け入れる受容性の違いでしょうか。それこそが人間というものの価値を高めるものなのだと気づかされました。

いつもはBOOKOFFで一冊105円の本を買う私としては、その13冊分である1,300円+税のこの本はまさにお宝本となりました。
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by epole | 2012-09-16 16:25 | 小説にみる自販機
どくとるマンボウ途中下車の自動販売器
道端で、トーモロコシ、ギンナン、カシの実などを焼いて売っている。親しみが沸いたが、フグの前は空腹でいたいので素通りした。
「時代が生んだオートメーション酒場 五十円玉一ヶで自動販売器からあなたの好きなお酒がのめます」という大看板があった。
ここは味気ないが、ちょっと面白かった。いろんな銘柄の酒があり、二級酒だと一合、一級酒だと七勺ばかりの酒がでる。私はさまざま試み、つまりかなり飲んだわけだが、立って飲むのでどうも落着かない。いずれにせよ、自動販売器はあらゆる品種にわたって殖えてゆくことだろう。買うのが恥ずかしい品物などには好適であろう。たとえば焼芋。ドイツの公衆便所にはゴム製品のそれがある。

わたくしが読んでいるこの本は、北杜夫著「どくとるマンボウ途中下車」(中公文庫  昭和48年9月10日初版 昭和50年12月15日八版)

北さんは今回福岡のホテルに泊まったのだが、我慢ならぬホテルで、こんなホテルで食事をするのはイヤだと街に出たのであります。そこで出会ったのが「オートメーション酒場」で、そこではいろんな銘柄の酒が自動販売器で提供されていたようなのであります。そういえば、どこかの空港か商工会かで同様の取り組みがされていたことを思い出しました。
北さんの自動販売器への思いはさらに広がり、いずれ自動販売器は多くの品種にわたって増え、特に買うのが恥ずかしい品物には好適であると言及している。
やがて自販機ではえっちな雑誌やおもちゃ、DVDなど、焼芋なみに買うのが恥ずかしい品物に拡がるのだが、青少年への悪影響というあたりまえそうな意見におされ、各種条例により規制を受け、殆どの自治体から姿を消してるのはご案内のとおりであります。
ちなみに私はこれら条例は憲法に違反するものであるとの立場をとっています。

北さんのこの時代は「自動販売器」で、「自動販売機」ではないのだなあ。
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by epole | 2012-02-07 23:20 | 小説にみる自販機
おまけより割引してほしいの自動販売機
簡単ー衝動買いを誘う仕掛け⑥
買うのに簡単な動作ですむ場合には、公式でいう分母の費用が軽減されるので、値ごろ感が上がる感覚が生まれる。携帯電話やインターネットでショッピングしたり、駅、道端の自動販売機での購買も同様である。ただし、女性は意外にも自動販売機を好まないという調査結果がある。女性はやはり男性と比べて簡単に乗せられない客のようだ(中略)。費用は価格だけでなく、付帯経費、機会費用からも構成されている。これらを合せた総費用が負担感の基礎になる。この場合は、機会費用を短縮することによる値ごろ感の上昇である。携帯電話のお財布ケータイ、ネット通販、道端の自動販売機はいずれも非常に簡便に商品を購入できる。

わたくしが読んでいるこの本は、徳田賢二著「おまけより割引してほしいー値ごろ感の経済心理学」(ちくま新書626  2006年11月10日第1刷発行 2007年4月5日第3刷発行)

ここでいう「公式」とは、「値ごろ感」を、価値を分子、費用を分母とした比で示すもので、詳しくはぜひ本書を購入してお読みいただきたいところです。
物品を購入する等の何らかの行為を行う場合、人々は様々な価値感に基づいて判断し行動する訳ですが、本書では「値ごろ感」に着目して分析を試みる訳です。

自動販売機については「簡単」というキーワードと「ついで」というキーワードにより論じられている。
なぜ自動販売機で飲料を購入してしまうのか。それは、「そこに自動販売機があるから」という簡単な理由を思いついていたところですが、なぜ他のちゃんとした店舗で買わないのかと比較してゆけば、本書で論じる「値ごろ感」というのはいい感じである。

私が子供の頃自動販売機の飲料を欲しかった理由を思い起こせば、自動販売機で販売される缶飲料が、商店のショーケースで冷却された瓶の飲料と比べて冷たく感じたからでありました。自販機で買う缶飲料って、手に取った瞬間から凍り付きそうな冷気が手のひらに伝わってくるじゃない。あれは、瓶やペットボトルでは感じることの出来ない幸せな感覚なんだな。その価値を高く評価する子供の私には、自動販売機での缶飲料が費用に対して非常に値ごろ感が大きかったというところなのでしょうか。

「ついで」についてはまた次回。
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by epole | 2011-12-04 12:28 | 小説にみる自販機
自転車に乗る漱石 百年前のロンドンの自動販売機
イギリスにおける絵葉書人気を決定付けたのはボーア戦争(1899-1902)であった。大判の葉書が認可されたのとちょうど同じ頃で、南アフリカで活躍するイギリス軍人の姿が、ユニオン・ジャックの旗のもとに雄々しく描かれた絵葉書が人気を博した。漱石はロンドン到着の翌日、「南亜ヨリ帰ル義勇兵歓迎ノタメ非常ノ雑踏ニテ困却セリ」(1900年10月29日)と、日記に書いている。
おりしも1900年頃を境にカラーの絵葉書が出回るようになり、コレクターたちの収集熱を駆りたてた。この年の7月にはコレクターを対象にした雑誌「ザ・ピクチャー・ポストカード・マガジン」(図版47)が誕生し(漱石の渡英は同年10月である)、毎号表表紙にタックス社が全面広告をうち、消印のあるわが社の絵葉書を最も多く集めた者に1000ポンドの賞金を出す、と宣伝した。主要な鉄道駅には自動販売機が設置され、絵葉書用携帯ペンやアルバムが市販され、各地に絵葉書クラブが結成された。郵便配達夫のかばんはメッセージのない絵葉書でいっぱいになった。コレクター宛てに各地のコレクターから送られてきた絵葉書である。まさに絵葉書黄金時代の到来である。

わたくしが読んでいるこの本は、清水一嘉著「自転車に乗る漱石 百年前のロンドン」(朝日選書689  2001年12月25日第1刷発行)

漱石の時代、イギリスではたばこの自動販売機があったと記す書籍を見て、たばこ好きの漱石のこと、もしや彼の書籍のいずこにかたばこの自動販売機に関する記載がないかと、彼の書籍・書簡集を隅から隅まで探したのですが、まだその発見に至っていません。そんな中で、漱石の日記と、漱石の滞英したころのロンドンの様子をシンクロさせたこの本に出会ったのがほんの数日前のこと。
漱石の日記の中には「3月19日 Craig氏ニ至ル。・・・・・・夜入浴、烟草四箱ヲ買フ。」といった、たばこを買った旨の記載はあるようなのだが、たばこの自動販売機に関する記載はされていないのか。
そんななかで、漱石が日本にいる子規あてに大量の絵葉書を出したといった話(「16 絵葉書を子規に送る」)の中で突如出現した1900年当時の駅に設置された自動販売機の記載。文脈上、この自動販売機は「絵葉書の自動販売機」か「絵葉書用携帯ペンの自動販売機」か、あるいは「アルバム」なんだろうが、これは参考書籍をあたってみないといけない。

漱石も駅に置かれた自動販売機を使ったのだろうか。
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by epole | 2011-11-09 20:58 | 小説にみる自販機
北杜夫さんを悼む
東京に電車で行くときに北さんと一緒になったことがある。奥さんと娘さんが改札口まで見送りにきていた。左折して自販機でお二人が見えなくなったときに、北さんは急に落ち着かなくなり、「ビールは売っていませんか」と自販機をひとつひとつ調べだした。私は自分が車内で飲むために缶ビールを沢山持っていたので、「これでよかったら二人で飲みませんか」と言うと、「ああ、よかった。僕はビールを飲まないと死んでしまうのです。これで命が助かりました」と北さんは大喜びだった。

私が読んでいるこの文章は、「北杜夫さんを悼む 夢中で読んだ長編『楡家』」(加賀乙彦著 平成23年10月27日付け日本経済新聞〔文化〕)

中学生のころ、なぜか「ドクトルまんぼう」ものにハマッた私は、北さんの文庫本を買いまくった。ドクトルまんぼうの延長で、「少年」やら「楡家の人々」やら「夜と霧の隅で」なども読んだのだが、何が書いてあるのかは理解していなかったように思う。とりあえず読んだだけの読んだ実績だけを積んだわけで、現在の「勉強はするけれど身にならない」という状況はそのころに培ったものなのかもしれない。しかし、北さんにとっては関係のない話で、とんだ言いがかりというものである。
その後北さんが学んだ旧制松本高校のあった隣の高校で学んだり、最終的に旧制松本高校の流れを汲む信州大学大学院に学んだわけだけれど、高校以降は北さんの文学に触れる機会はなくなっていたのだ。
そんな中での北さんの訃報。「鬱病」やら「躁病」やらという言葉と「やあ、あれは躁状態のときに書いたんですよ」という、たしか船乗りクプクプの冒険に関する言葉だけがいま思い出されるだけなのだが、この日本経済新聞の最終面で、北さんを悼む文章に自動販売機が出現しているのも、なにかの運命があるのかもしれない。
こんど、旧制松高の学舎に残る、北さんの落書きを見に行ってこよう。そのそばには、私が3年を過ごした校舎も残っているはずなのだ。
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by epole | 2011-11-06 20:19 | 小説にみる自販機
明治事物起源の自動販売機
自動體量計の始
明治廿一年二三月頃より、府下銀座の岩谷松平の仕掛けたる自動煙草賣函は、久しからずして廃したりしが、同年夏頃より、踏臺に上りて、一銭銅貨を入るれば、己の體量を示すべき自動器械を、浅草公園に仕掛けし者あり。翌年夏ころには府下各所の氷店水茶屋等の前に之を仕掛くるに至れり。

石井研堂著「明治事物起源」(発行所 橋南堂  明治四十年十二月廿五日印刷 明治四十一年一月一日発行)

自動體量計の始
明治九年七月、東京上野公園内大佛下勝覧所のちらしに、
 量體器御一名御試験金二銭、新聞紙縦覧通覧同三銭、集會貸席廉價に御相談可申候とあり。
明治二十一年二三月頃より、府下銀座の岩谷松平の仕掛けたる自動煙草賣函は、久しからずして廃したりしが、同年夏頃より、踏臺に上りて、一銭銅貨を入るれば、己の體量を示すべき自動器械を、浅草公園に仕掛けし者あり。翌年夏ころには府下各所の氷店水茶屋等の前に之を仕掛くるに至れり。
二十九年五月の〔圓珍〕に、一度銭を投じて二人の體量を量る狡猾者のあることを記せり。

石井研堂著「明治事物起源」(刊行所 春陽堂  大正十五年十月十五日印刷 大正十五年十月十八日発行)

「明治事物起源」は、明治期のさまざまな事物について記載した書物であります。初本は明治40年に印刷、翌年発行されており、大正15年になって更に内容を加えて発行がされています。
この際「自動體量計の始」については明治9年7月に、上野公園に「量體器」が置かれた旨の記述が加わっているのであります。
後に発行された他の文献には、自動體量器が「我国にては明治9年7月の頃すでに東京上野公園の中に自動體量計が設置せられ、その試験料は一名につき金二銭であったという。」といった記載をしたものが登場し、それを真に受けた最近発行の書籍も存在するのですが、その内容は明治事物起源の記事に酷似していること、明治事物起源(大正版)以降に発行されていること、そして、上野公園に「自動」體量計を設置したとの資料が他に見当たらないことから、私はそれは「明治事物起源」でいうところの単なる「體量器」を「自動體量計」と誤解して記載したものと考えています。
その上で、日本で最初に設置された自動販売機は「明治二十一年二三月頃より、府下銀座の岩谷松平の仕掛けたる自動煙草賣函」だと考えるのであります。
ただし、この「自動煙草賣函」がどのような物であったかを示す資料にまだ行き着いていないのであります。
いま自動販売機といえば一般的に、お金を入れると自動的に商品が排出される器械をいいますが、例えばイギリスにおいての初期のたばこの自動販売機は、お金を入れると掛金が外れる煙草箱で、購入者は開いた箱の中から煙草をさじですくって、また箱を閉めるといったものでありました。
しかしながら、岩谷商会の煙草製品といえば、「手巻きの口付きたばこ「天狗煙草」」でありまして、さじで煙草の葉をすくうようなものとは異なります。もしかしたら本格的な、お金を入れると商品が出る自動販売機が存在したのかもしれないのであります。
当時の自動販売機について、どなたか史料をお持ちでしたらご提供をいただきたいのであります。
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by epole | 2011-11-06 16:57 | 小説にみる自販機
生物と無生物のあいだの自動販売機
ところが、頭三分の一を失ったプリオンタンパク質は、タンパク質xとは結合できないにもかかわらず、中途半端なことに、タンパク質Yとは完璧に結合しうるのだ。そのことによってYは、擬似的にパートナー分子が存在する状況を与えられることになる。そこではバックアップが作動するようなSOSは発信されない。そして情報伝達経路は、何も知らないまま、さらに複雑なネットワークを組み立てていく。
やがてマウスは誕生し、道の環境と遭遇する。脳の神経活動はどんどん盛んになり新しいシナプスが形成されていく。おそらくタンパク質Xからタンパク質Yへの情報伝達はこのような脳の発達と関係して必要とされる機能なのだろう。その齟齬は、生まれてすぐにではなく徐々に現れることになる。XとYを橋渡しするはずのプリオンタンパク質は、ここではXの情報を伝達しないまま、Yと結合する。それはちょうど歪んだ硬貨を投入された現金識別装置のようにフリーズを起こすことになる。そして、そのフリーズは自動販売機の機能全体を致命的に停止してしまうことになるのだ。

わたくしが読んでいるこの本は、福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」(講談社新書(1891) 2007年5月20日第1刷発行2007年11月7日第12刷発行)

ここで筆者は遺伝子操作により細胞のあるパーツ全てをノックアウトしたマウスがまったく正常そのものであるのに対して不完全な遺伝子をノックインした場合、致命的な以上をもたらすこと、そのことを分かりやすく示す比喩として「歪んだ硬貨を投入された現金識別装置」あるいは「自動販売機の機能全体を致命的に停止」という表現を用いている。
もちろん最近の自動販売機では歪んだ硬貨などは入り口で引っかかってしまい投入し得ないし、あるいはそこを通過したものはきちんと識別装置をとおり、認識され、あるいは認識されずにそこを通り抜けてコトンと落ちる。あるいは硬貨など使用しなくても、FeliCaなどの非接触装置により、自動販売機の機能を使用することは可能である。さらに、自動販売機の機能が多様化するなかで、金銭が投入されること自体が自動販売機の機能を動かす必須の条件とは言えなくなってきている。
さらに違和感を覚えるのは、一般に自動販売機はAという事象を施せば自動的にBという結果が現れる比喩に使われるのだが(もちろん故障してBという事象が起こらない例としても用いられるのだが。)、ここでは実に生物が活動を停止する例になぞらえているのである。この部分では、筆者はここに至った生物の活動はもはや治癒のしようのない不可逆的な、機械的なものと認識しているのか、あるいは自動販売機を、生物になぞらえて観察していたのか。いずれにせよ、私にはすこしつながりに無理を感じるところである。

それにしても、この本の読み応えのあることよ。

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
生物は生きていくため、自らを壊し続け、その以前の姿のまま造られ続ける。生命とは動的平衡にある流れである。
そして生きることをやめたとき、自らを壊し続けることを停止するのだ。
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by epole | 2011-10-15 22:03 | 小説にみる自販機