「きれぎれ」の自動販売機
俺はアルミサッシュを引いて券売所兼待合所に入り、おのころ湖遊覧(望楼亭経由)乗船券おとな777円こども333円とむやみに大きな字で表記してある自動券売機に札を入れ、おとな、はは。俺、おとな。777円のチケットを買ってプラスチックの椅子に坐って船がくるのを待った。
・・・
俺はなんとしてでも煙草を吸わなくては、と思った。いまここで煙草を諦めれば、俺は生涯諦め続ける、と思った。集中豪雨の日に光の輪のなかで煙草を吸う。それは個人的な行であり十字架であると思った。
手近の自動販売機で煙草はすぐ買えた。封を切らなければ雨の進入もない。しかし問題なのはライターで、ポケットに入れていたのは雨ゆえ石が湿ってスパークしない。となれば新しいのを買うしかないのだけれども、何分深夜でしかも集中豪雨、明かりのついている商店は見あたらない。俺はめったやたらと歩き回った。しかしライターを売っているような店はない。衣服は水浸しで水中を歩いているのと少しも変わらない。もう駄目か。俺はもう駄目になってしまうのか。心のなかで弱気の虫がちろちろ鳴いて、俺は、駅の自由通路に避難、券売機の並んだあたりに背中をもたせかけ、髪や両腕を反射的に拭った。
雨に打たれているときはそうでもなかったのが、そうして、屋根のあるところに入ってみると自分が濡れているということがより一層意識せされ、俺は、いったいこんなことになんの意味があるというのだ、馬鹿馬鹿しい。こんなことは直ちに止めて温かい自宅でゆっくり一服すればいいのではないか、と自分に言い聞かせ、行を中断、家に帰る気持ちを固め、歩きかけたそのとき、俺は、券売機の下に、赤いライター、朱色の菊花にオーバーラップして、勘亭流で、まどか、と書いたシールの貼ってあるのが落ちているのを見つけた。

わたくしが読んでいるこの本は、
町田康 著 『きれぎれ』(123回芥川賞受賞)平成12年上半期

ここでの乗船券の価格は777円または333円で、券売機で販売されているのだが、これはフィクションだからできること。実際には10円未満を認識する自動販売機は現在のところみあたらない。もし出来たとしても、一円単位でおつりがでる自動販売機を喜ぶ人は少ないであろう。
自動販売機を使用する際、人々の価格認識はおおらかになる。スーパーの売り場で98円で冷やして売っているにもかかわらず、同じスーパーの店先に置かれた自動販売機で150円で購入するではないか。そのくせスーパーで買い物をする際には数円の違いを問題とするのである。このちがいの所以は何なのだろう。

たばこの自動販売機は、特に探し回らなくても、手近にある。本来の法律・規則に沿えば、煙草の販売は販売員が監視できる状況でなくてはしてはならないので、そうであれば煙草を買うことが出来る状況では必ず販売員がいて、そうであれば販売員からライターは容易に購入できるはずなのだが、「俺」は手近の自動販売機で容易に煙草を買ったのだがライターを購入できず、雨の中を探し回るのである。
図らずも、煙草の販売規制が有名無実であることを証明しているのだな。

自動販売機の下に物が落ちている様子が描かれている。しかし、自動販売機の下はこうやって屈んで覗き込んで目を凝らさないと物がみえない。
そう思ってよく読み返すと、赤いライターのあったのは「駅の券売機の下」。券売機だったら壁に組み込み式で下に物がはいるような空間はないのかもしれない。この「下」は「もと」と読むべきだったか。
でも、長野駅の有人切符売場の脇に置かれた「えきねっと券売機」は通路中央に置かれているので、もしかしたら下(した)に空間があったかもしれないのだな。

この小説ででてきた自動販売機の呼び方。
「自動券売機」「自動販売機」「券売機」・・・これまで「切符の自動販売機」とされていたのが、初めて「券売機」として登場しました。でも、「自販機」はまだ登場していない。
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by epole | 2007-05-12 07:36 | 小説にみる自販機


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